鎌倉時代の中期(1264~73)亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士、従五位ノ下、北小路蔵人之頭・藤原基晴(ふじわらもとはる)は、宝刀の紛失事件の責任を取って職を辞し、三男・采女之亮政之(うねめのすけまさゆき)を連れて宝刀探索のため、当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った。
基晴親子は、当時下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び、従来の武士を客とした髪結所を開いた。店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので、下関の人々はいつとはなしに「床の間のある店」転じて「床場」さらには「床屋」という屋号で呼ぶようになった。「床屋」という言葉は下関が発祥地となりその後全国に広まっていった。
その後、采女之亮政之は宝刀を見つけ朝廷に奉還し、鎌倉に移り住んで京都風の髪結職として幕府から重用された。
[下関床屋発祥の地記念誌より]
※床屋の名称について賛否はあるが、古くから親しまれた「床屋」と言う名称は、我々の原点でもある。